宇宙が生んだ究極の芸術 ―Pink Floyd『Atom Heart Mother』

ー超越ー
これほどこの言葉がふさわしい作品は人類史上ほかに存在しないだろう

この記事では、プログレッシブロックバンド「Pink Floyd」による1970年の名盤『Atom Heart Mother』の解説を行います。

60~70s’ロックを語る上では欠かせないこの作品。あなたの音楽人生に、よき風がもたらされることを願っています。

<もくじ>

1.ピンク・フロイドと『原子心母』の概要

2.『原子心母』の衝撃、そのインプレッション

3.楽曲解説

4.前後関係からみる『原子心母』

5.まとめ

1.ピンク・フロイドと『原子心母』の概要

プログレの誤解

ピンク・フロイド
いわゆるプログレッシブ・ロック(以下プログレ)に分類されるバンドだ。1973年『The Dark Side of the Moon』(邦題『狂気』)はロックにおける最も偉大な名盤の一つとして知られている。

アルバムを聴いたことはなくとも、このジャケットを見たことがある人は多いのではないだろうか。

プログレというとどんなイメージを持つだろうか?
曲が長い?変拍子?テクニカル?変態?
そのような認識を持つものが多いのは事実だ。

ピンク・フロイドとともに5大プログレバンドとして数えられるキング・クリムゾンやエマーソン・レイク&パーマー、そのフォロワーなどの作品を聴けばそういった印象を持ってしまうのは仕方ないとも感じられる。

しかし、これらはプログレの本質からは程遠い。スケールの大きいコンセプト重視の世界観を作ることこそが本質であり、そのために様々な技法が存在するのだ。アーティストにそのつもりはなくとも、テクニカルな部分が前面に押し出され、「プログレ=変態」というイメージを大衆に抱かせてしまったのは悲しいことだ。

他と一線を画す存在

ではピンク・フロイドはどうか。

本作に限らず、ピンク・フロイドは他のプログレバンドとは異なり、わかりやすくテクニカルなアプローチはとらない。サウンド面においても、ロック特有のハードなバンドサウンドではなく、幻想的なサウンドを用いている。(1975年「Wish You Were Here」以降はかなりサウンドがハードになっていく)

【ライブの演出について】

加えて、「プログレッシブロック」という用語が初めて使われたのがこの『原子心母』だ。最初のプログレであり、壮大なスケール・コンセプトという本質を極限まで表現しきったのがこの作品である。

言語で表現できる気はまるでしないが、インプレッションを書き留めてみたい。

2.『原子心母』の衝撃、そのインプレッション

その情景

レコードA面外周の無音部分に針を落とし、音が鳴りだした瞬間から、何やらただならぬ気配を感じる。
これからとんでもないことが起こるのではないか。そんな予感を胸に抱いたかと思いきや、一瞬にして「音楽を聴いている」という感覚は失われ、彼らの作り上げる超次元空間へと放り込まれる。
〈私〉から物理的存在性が失われ、感覚のみの思念体に変換させられた先に、長大な精神の旅が待ち受けているのだ。

時には時間が百倍にも千倍にも引き延ばされ、時空はゆがむ。自分が世界のどこに存在しているのかわからなくなり、迷子になってしまうこともある。
「もうやめてくれ!」
そう叫んでも、彼らはそれを許してはくれない。
永遠にも感じられる苦しみの中で「もうだめか」と思った時、突然目の前が開ける瞬間が訪れる。

この世における極限の苦しみ・絶望をつきつけておきながら、そこから一瞬で極限の快楽まで導く道までもが設計されているのだ。
しかもその流れが一度や二度ではなく、曲の中で何度も繰り返される。一度苦しみから救い出しておき、心の平静を取り戻せると油断させてから、すかさずまた奈落の底へとたたき落とす。
全てが彼らの思うつぼであり、音楽と呼ばれる何かに弄ばれてしまうのだ。

最後の苦しみを与えられたのち、突然これまで見てきた情景が走馬燈のようにフラッシュバックしはじめ、旅の終わりが近いことを告げられる。あれほどの苦しみを与えられておきながらも、その中にノスタルジーを感じずにはいられない。

旅のフィナーレ。これまで経験したすべての現象が一つの波となって押し寄せ、絶対的世界の現実として目の前に提示されるのだ。

超越性の手触り

ルネ・デカルトは「Cogito ergo sum(我思う、ゆえに我あり)」といった。
「自己という存在をどれだけ疑っていっても、そのように意識している自己を否定することはできない」というように解釈される。

およそ50分間の旅を終えてからも思考は続く。

曲を聴く中で意識だけの存在になったような感覚、肉体という物理的存在性を取り戻してからの違和感。
はたしてあの旅は本当に存在していたものなのか。

その疑念が深まり終わりのない思考の海に飲み込まれそうになるとき、今ここにいる自分が確かに感動を覚えていることに気付く。

何が起こったのかを理解することはできない。
しかし、意識としての存在にしろ肉体的存在にしろ、自己をはるかに超えるような体験をしたのだということは、まぎれもない事実なのだ。
その感覚が、超越的な何かと自己が繋がっているという実感をもたらす。
それこそが超越性の手触りだ。

楽曲解説

前項では『原子心母』を聴いての印象を語った。
続いてこの項目では、楽曲の特徴を述べたいと思う。
楽曲について解説した記事は他にも沢山あるので、ここではアルバムのうち2曲に軽く触れる程度に留める。

Atom Heart Mother

レコードの片面すべてを使用した、23分を超える大作。ブラスバンドやコーラス、ストリングスなどを大胆に使用した楽曲だ。

複数のパートからなる組曲のような構成をしているが、その要素は実に多様だ。分かりやすいところだけでも、その特徴を列記してみよう。

・金管楽器とバンドが融合した、クラシカルで荘厳な主題
・ストリングズとキーボードのアンサンブルから物悲しいギターへ
・コーラス隊による宗教音楽的でダークなスキャット
・男女混成によるアフリカン・コーラス
・サイケデリック/コズミックなアヴァンギャルドパート

こうして書いてみても、本当に同じ曲中のパートなのかと疑わしくなるくらいだ。それらが荒野を歩き続けるような果てしない情景の中で、様々な感情を想起させる。曲の最後でそれらすべてが一つの現象となって襲い掛かってくる展開は、見事としか言いようがない。

ちなみに「Atom Heart Mother」は、デイヴィッド・ギルモア(Gt)が思いつた曲をもとに、ライブでも披露しながら実験を繰り返していき、曲を形にしていった。しかし、曲の出来に納得がいかず行き詰った彼らは、前衛音楽家ロン・ギーシンの手を借りて完成させた。結果、大胆にクラシックの要素を盛り込んだ壮大な曲として仕上がったのである。

Alan’s Psychedelic Breakfast

生活音などを組み合わせて音楽に作り上げる、いわゆる「ミュージックコンクレート」作品だ。

楽曲は蛇口から水滴が落ちる音からはじまり、朝の情景を描き出す。
ドアが開く音、スリッパが床をする音、、、

それらの生活音を背景に、空間を行き交う幻覚的な人の声が聞こえてくる。
主人公がマッチをすったかと思うと、それに呼応するかのようにバンドの演奏が始まる。

しばらくすると、やかんのお湯が沸いた音で現実に連れ戻される。
コーヒーをドリップする音、食器の音、りんごをかじる音、窓の外の鳥がさえずる音。
シリアルを器に移すと、その音をトリガーに再び幻覚の世界へと誘われていく、、、。

初見の人には意味不明だろう。

この曲には、実に多彩な音が用いられている。それらはおよそ音楽にはなりそうもないものばかりだ。
しかし、通して聴くとそれらが一つのストーリーとして紡がれていることに納得してしまう。

曲名にもあるように、この曲は幻覚体験の内的世界を描いたものだろう。共感覚や統合失調症などの特殊な精神構造を持つ人々が、日常の些細な出来事を引き金として幻覚の世界へと導かれる体験が、穏やかな雰囲気に包まれるように作り出されている。

穏やかに、といったが、実際に曲に触れるとその世界に飲み込まれるかのような感覚を覚える。
端的にいうと、作りこみがすさまじい。

空間のどこからどんな音がするのか。そしてそれがどのような景色を作り出すのか。スピーカーから出力される音を正確無比にコントロールし尽くす。そしてその極度の作りこみはスピーカーの存在を消し去り、聴く者を〈音楽〉ではなく〈体験〉世界への陶酔と引きずり込む。いわば、強制的に音楽の世界に入り込まされてしまうのだ。

ピンク・フロイドを代表する作品というと、後述の『狂気』や『Echoes』、『あなたがここにいてほしい』などが挙がることが多い。
しかし、少なくともテクニカル面においてはこの曲を抜きにして語ることはできないだろう。

前後関係からみる『原子心母』

さて、以降はピンク・フロイドの歴史に触れつつ、『原子心母』がどういう位置づけの作品かを考えていきたい。

狂気の天才・シドバレット

1967年のファーストアルバム『The Piper at the Gates of Dawn』(『夜明けの口笛吹き』)でシーンに大きな衝撃を与えたピンク・フロイド。
当時、先進的なサイケデリック・ロックバンドとしてその名を広めた。

フロントマン&リーダーであったシド・バレットが作詞と作曲のほとんどを行った本作は、彼独自の世界観がふんだんに表現されている。
というのも、シドは幻覚剤LSDを多用しており、もともと共感覚の持ち主でもあったことから、その体験や言動は常人には理解しようもない領域にあった。

それらのシドのインスピレーションから出来上がったのが『夜明けの口笛吹き』だ。この1stアルバムは現在でもサイケロックにおける大名盤として多くのファンがいる。

シドの狂人的な姿は、間近で接したメンバーにも強烈な影響を与えたようだ。
のちのバンドリーダーとなるロジャー・ウォーターズが、「シドは天才だった」と明言している。

【参考】Bike(『夜明けの口笛吹き』収録)

シドの脱退と実験音楽への傾倒

重度のLSD中毒に陥ったシドは次第にバンド活動に参加できなくなる。次作『A Saucerful of Secrets』(邦題『神秘』)には、彼の作品はわずか一曲しか収録されなかった。ほどなくして、シドはバンドからの脱退を余儀なくされる。

サポートメンバーとして参加していたギタリストのデイヴィッド・ギルモアを正式なメンバーに迎え、バンドは4人体制で再スタートを切った。

さて、次なる作品はどのようなものになるのか?
そんなシーンの期待に反して発表されたのは、メンバーのソロ作品集だった。
『Ummagumma』(『ウマグマ』)で、メンバーはそれぞれソロ作品を作り、別々の曲として収録しリリースしたのだ。

※『神秘』と『ウマグマ』の間に『モア』というアルバムを出しているが、映画のサウンドトラックとして発表されたものなので、ここでは省略する。

この行動についても考察が必要だろう。

これは私の想像だが、おそらくこの時期、メンバー全員で次作を作ろうともしたはずだ。しかし、シドからの強すぎる影響により、バンドメンバーが得たインスピレーションが壮大すぎたのだ。

なおかつその形は各人によって異なったために、音楽に対するアプローチが噴出しすぎてしまったのではないか。いわばアイディアの飽和状態だ。結果それらを制御しきれず、各人がソロ作品を作るという行動に出たのだと私は思う。

しかし、この行動は正解だったといえるだろう。
全作品にいえることだが、ピンク・フロイドは想像もできないような量の試行錯誤を繰り返している。

頭の中にある音をどうやって作り出すのか?
楽器・サウンド・録音方法・特殊効果・ミックス、、、思いつたことはすべて試したのだろう。
信じがたいが、音に納得できずに楽器を作ることもあったらしい。

これらはメンバー全員での試行錯誤はもちろんだが、その前提となる各人の実験があってこそだといえるだろう。

『神秘』に続いて安易にメンバー全員で作品を作ろうとするのではなく、一度各人のアイディアを熟成させたことが後の傑作につながったと私は考える。
『ウマグマ』を聴きこむと、様々なアイディアが『原子心母』やその後の作品にも受け継がれていることがわかるのだ。

果てしない実験、試行錯誤の連続。
ピンク・フロイドが〈ミュージシャン〉ではなく〈アーティスト〉であることを感じ取ることができるという意味で、『ウマグマ』は重要な作品だ。

そして、『ウマグマ』とそれ以前の試行錯誤の数々を結実させ、芸術作品としてはじめて昇華させたのが『原子心母』なのだ。

【参考】Several Species Of Small Furry Animals Gathered Together In A Cave And Grooving With A Pict(『ウマグマ』収録/Roger Watersのソロ作品)

『狂気』への橋渡し?

『原子心母』以降の作品についても触れておきたい。
次作『Meddle』(邦題『おせっかい』)収録の「Echoes」は、ピンク・フロイドの作品群の中でも、特に人気のある曲だ。

23分を超えるこの曲も、『原子心母』のプログレ的大作志向を引き継いだものだ。抽象的である歌詞も楽曲の展開と照らし合わせれば考察しやすい内容で、アート作品としてより受け入れられやすいものとなったといえるだろう。

【参考】Echoes(『おせっかい』収録)

そして、ピンク・フロイドの音楽性は1973年『The Dark Side of the Moon』(邦題『狂気』)で完成の域に達したと言われる。バンドサウンドとSEをふんだんに盛り込み、空間的音響特性を前面に押し出した複雑高度なサウンドプロダクションは非常に評価が高い。

【参考】On The Run(『狂気』収録)

『狂気』と共に、『原子心母』をテクニカルな面で見るなら前述の通り「Alan’s Psychedelic Breakfast」に注目したい。
この高度な曲作りの技法が、『狂気』ではバンドサウンドとの親和性を高めるために違った方向に発揮されたといえよう。

またテクニカル面だけでなく、テーマも「人間の狂気」という、壮大でありながらもイメージしやすいものだ。これまでの作品の抽象性からすると、『狂気』はかなり具体的な内容を表現しているようにもとれる。

決して単純な作品というわけではないが、その完成度ゆえにコンセプトが明確で、表現しようとしていることがわかりやすいのだ。

それに対して『原子心母』は、正直何を表現しているのか具体的に言葉にしようとしても壮大すぎて、何を言ってもチープに感じられてしまうのだ。

どちらに芸術作品としてより感動するかは人によって異なるだろうが、私は『原子心母』により超越的世界観を感じている。

いずれにせよ、2つの作品間には連続性はありながらも、明確に違いはあるということを強調したい。

まとめ

考察を重ねてきたが、アート的に考えてもテクニカル面で考えても、私は『原子心母』は究極の作品であることは疑いようがないという考えだ。

前述のインプレッションからの続きのようにもなるが、この作品の超越性について述べて、今回のまとめとしたい。

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人類が文化を持ってから、そこには常に音楽があった。その文化の極点に存在する作品がこの『原子心母』だ。

人類史における最高傑作であるといえるだろう。
いや、もはや人類という枠で捉えることすら陳腐に感じられてしまう。この宇宙が生み出した最高傑作だ。

自然、生命、哲学、心理・・・
宇宙が誕生してから138億年のあらゆる現象とそれらのつながり、そしてそれらが生命体に与える影響とイメージ、感情のはたらき。そのすべてを知り尽くした先に悟る「超越」を、今から半世紀も前に12インチの円盤に刻み込んでしまったピンク・フロイドは、はたして人類なのかも疑わしくなってくる。

音楽に弄ばれたことも、その究極まで計算されたプロセスに感動するしかなく、不快感を覚える余地もない。超越に対してひれ伏すのみなのだ。

この作品に超越性を見いだしてから、音楽の価値観が決定的に変わった。
音楽を聴くという行為を通して湧き起こる感情に敏感になり、それが体験として蓄積されるようになった。
超越に身をゆだね、自己の尊厳を獲得したことで表現することに恐れがなくなった。

『原子心母』の体験は、人生に不可逆な変化をもたらしてしまう。戸惑うものもあるだろうが、それを受け入れた先には素晴らしい世界が開けているのだ。

我々の人生に豊かな変化が訪れること、そしてその感動をともに体験できる仲間が目の前に現れることを願って。

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