Tim Hecker『Konoyo』 ―デジタルとアナログの交感、 さらなる複雑性の獲得

Artist: Tim Hecker

Title: 『Konoyo』

Year: 2018

Country : Canada

Genre: Experimental,Noise

Tim Heckerとは

Tim Heckerはカナダ出身、現在は米ロサンゼルスを拠点に活動するのエクスペリメンタルコンポーザー/サウンドアーティストだ。00年代以降の電子音響ミュージックにおけるムーブメントで頭角を現した、複雑な空間的サウンドプロダクションを得意とするアーティストである。

モントリオールのコンコルディア大学を卒業後、カナダ政府で政治アナリストとして就職した。その後2006年にマギル大学で都市騒音のリサーチをはじめ、同大学において「音の文化」に関しての専門家として講義を行ったこともある。2001年にデビュー作『ハウント・ミー、ハウント・ミー、ドゥ・イット・アゲイン』を発表。以降、独自の解釈と手法で音響エレクトロニック・アンビエント・ドローンシーンを牽引している。

実験音楽というカオスの時空

「エクスペリメンタル」というと仰々しく聞こえるかもしれないが、要は日本語でいうところの「実験音楽」である。

その用語の示す意味は特定のジャンルというよりは音楽の潮流、概念と言った方が適切だ。特に現代音楽家ジョン・ケージの提唱した「不確実性の音楽」「偶発性の音楽」「無音の音楽」などがその代表的なものとして知られる。明確な定義があるわけではないが、それらを想像してもらえれば目指す方向性はなんとなく分かるのではないかと思う。

およそ音楽とはなりそうもないような要素・技法を使って音楽を作り上げることが多々ある、というよりはそのこと自体が実験音楽の主題ともいえる。誰にでも理解できるような大衆音楽とは対極に位置するものということができるだろう。

もともと実験音楽には常人には理解不能なものが多々あったが、特に電子音楽が台頭してきてからは、その世界観は全くカオスの様相を呈している。あまりにも様々な要素の融合、アプローチの多様化によって、もはや特定のジャンルに押し込めて分類することは現時点では不可能だ。これらの解釈は、時代の流れを待つ必要があるのかもしれない。

雅楽との融合

そのカオスな分野において、『Konoyo』は電子音楽に日本雅楽を持ち込んで制作された作品だ。雅楽団体「東京楽所(がくそ)」とともに、東京都内の寺院にて録音が行われたらしい。

雅楽と融合した音楽作品はそれほど珍しいものではないが、名作といえるものはほとんど存在しない。多くが単調なビートのうえに雅楽の楽器を重ね合わせただけであり、従来のポップで聞きやすい大衆音楽の延長戦上にしかない。雅楽を単なるオリエンタルなファクターとしてしか捉えておらず、それらのかけ合わせが稚拙に感じられてしまうのだ。

「洋楽」「邦楽」という分類からもわかるように、現代音楽は西洋、特にイギリスとアメリカが圧倒的なイニシアチブを持っている。現代音楽は未だ日本のものにはなりきっていないようだ。そのコンプレックスからか、異質なものを注ぎ込み独自のスタイルを試みること自体は面白いのだが、残念ながら作りこみが甘く、サムく感じられてしまうのだ。

そのような中にあって『Konoyo』は、従来みられたような雅楽との融合アプローチからは完全に突き抜けた作品として評価することができる。この作品のコンセプトを一言で表すならば、それは「アナログ―デジタルの境界」だ。

デジタルとアナログを考える

再現性の獲得

ところで、「デジタルとアナログの違い」を尋ねられた時に、あなたはどのように答えるだろうか。様々な解釈があるだろうが、一言でいえば「再現性」だと私は考える。

デジタルというとビットによって表現される事物を想像するかもしれないが、その機能に注目してルーツを考えてみると面白い。人類は文字の発明によって、知識や情報を肉体から切り離し、多くの者に理解可能な形で保存・蓄積することができるようになった。

その情報の保存には石板・紙・ハードディスクなどの記録メディアが用いられ、時間と空間を超えての伝達を可能とした。

これを「文字化≒記号化」と呼ぶことにしよう。

現在では、情報がコンピューターが扱えるようビットに変換され、高速に処理できるようになった。しかし、そのプロセスを考えれば記号化以外の何物でもなく、本質的機能は石板に刻まれた文字から変わっていない。デジタルの起源は文字の発明であり、それは人類史上最高の功績だと私は思う。

そして記号化された概念に対し人間の社会は共通の理解を持ち、あらゆる分野において文字を持つ前からは考えられないほどの再現性を生んだのだ。

特に近代以降の多くの国家が憲法・法律を持つことを考えれば、そのことは明らかだ。人類がこれまでに蓄積してきた様々な知恵、概念を徹底的に明文化してルールと成し、それらを読んだときに誰もが同じ解釈をするという再現性のもとに社会が営まれているのだ。

他にも、今でも本を著す者は多いが、これは本に自分の考えや思想ともいえるものに再現性を持たせて広く伝達する機能が備わっているからである。

アナログとは何か?

ここまでデジタル≒記号化の優れた点を述べてきた。しかしながら、それら記号化された事物が人間の蓄積する知識・情報、そして感情のすべてを表しているだろうか

そう問われたとき、全ての人間が「NO」と答えるに違いない。説明するまでもなく、現時点でデジタルは匂い、味、手触りを伝達する一般的な手段はない。コンピューターによって伝達可能な音と光にしても、センサーなどを通して変換された情報に過ぎず、完全にオリジナルなものを扱えるわけではない。

簡単にいえば、デジタルは情報を減衰・低解像度化することで再現性を生んでいるのだ。デジタルが発達した結果、そのオリジナル情報が減衰した形態が露わになったことで、逆説的にではあるがアナログとはデジタル化できない情報も含んだ、再現性の低いものであると考えることができるのだ。

『Konoyo』に見るデジタル-アナログ感

さて、「Konoyo」に話を戻そう。

この作品では日本雅楽の楽器が用いられている。雅楽は不明瞭な音程、曖昧なリズムなど不確実な要素を多分に含む。まさに「アナログ=再現性の低いもの」の代表格のような存在だ。一方で、電子音楽はいうまでもなくデジタルであり、再現性の高さが特性といえるだろう。

この二項対立を超越してしまったのが「Konoyo」なのだ。作品の最後を飾る「Across to Anoyo」では、特にそのコンセプトが強烈に表現されている。不気味に空間に徐々に姿を現す太鼓と弦楽器の反復が、次第に耳を覆いたくなるようなノイズ音へと変異していき、その隙間から生じるドローンによって全体が飲み込まれていく。雅楽がもつ不気味なエッセンスを抽出しきり、驚異的なサウンドプロダクションによってデジタルノイズへと変容させていくストーリーからは、アナログが本来持つ不確実性がデジタルプロセスによってさらなる複雑性を獲得し、新たな次元へと生まれ変わったような感覚を覚えるのだ。

メディアアーティストの落合陽一氏は「デジタルネイチャー」という概念を提唱する。

落合氏はその概念を「人・モノ・自然・計算機・データが接続され脱構築された新しい自然」であると述べている。成熟したコンピュータ技術により、あらゆるものがソースコードとして記述され、人や自然などの「物質」と仮想的に再現された「実質」(virtual)が不断の連続的な関係に置かれる、それによって、旧来の工業化社会とは違った世界の在り方、価値観、環境が実現するという。

「Konoyo」の世界観は、落合氏の提唱する「デジタルネイチャー」と似ている。不確実性の総体である雅楽が見事に解体され、デジタルとの交感を経て新たな秩序の下に脱構築されていく様子は、まさしく「アナログ―デジタルの境界」の超越だ。その恐怖に満ちたプロセスにおののきつつも、恍惚感を感じられずにはいられないのだ。

まとめ

『Konoyo』は、お世辞にも聞きやすい作品とは言えない。ある程度音楽を聴き込んだ経験と、制作に関わる技法・ミックスについての理解、そしてそれらが言語化されていることも必要となり、伝わる人はほとんどいないだろう。

しかし、芸術における新たな表現は必ずと言っていいほど万人には支持されない。アーティストの提唱したものが優れた感性を備えた存在に伝わり、それが時間かけた文化的熟成を経て大衆へと広がっていくのだ。

『Konoyo』が大衆に受け入れられるような未来はまるで想像できないが、もしその時が、音楽に限らず人類の文化はどのようになってしまっているのか。そしてその時には、どのような新たな表現が生まれるのだろうか。

そのようなことを考えた。

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